こいつはイギリスに何しに行っとんねん!?という突っ込みの声が聞こえてきそうですが、フランスに続き旅行ネタ第3弾です。

まあ、日本に帰ってから再度ヨーロッパに旅行することを考えると、ちょいと無理してでも行っとこうかな…と(-_-;)。なんせ飛行機に1~2時間も乗れば大概の都市には行けるので、日本にいた時との距離感覚とは明らかに異なるわけです。

わたくし、実は西欧に留学する身でありながら、何気に東欧に強いノスタルジアを感じるわけです(自分でもあまり理由はよくわからないのですが…)そんな訳で、ドイツ旅行は迷うことなく旧東ドイツを選びました(ホントはお城とかを見て回るいわゆる普通のドイツ旅行も魅力的ではあったのですが。)地図を見るとわかるように、ベルリンから真下に南下するとドレスデンがあり、そこから更に南下するとプラハにぶつかります。というわけで、せっかくなのでチェコまで見てから帰ろう、ということで旅程は

ロンドン(空路)→ベルリン(鉄道)→ドレスデン(鉄道)→プラハ(空路)→ブリストル という道のりになりました。

前回のフランス旅行の時もそうなのですが、なぜ行きがロンドン発にしているかというと、ブリストル発と比べてロンドン発の方が圧倒的に便数が多く、従って航空券もかなり安価で入手できるからです。

まず最初の目的地がベルリンとなるわけですが、実はベルリン、そない観光名所がたくさんあるわけでもなく、何気に地味な都市であることが旅行ガイドブックからヒシヒシと伝わってくるわけです(なんでよりによってベルリン行くん?みたいな)。実は私の世代の青春時代(って古!)は冷戦末期に当たり、ちょうど中3生で高校入試に向けた受験勉強の追い込みにそろそろ入ろうかという11月にあの壁が崩れたんですね。で、それをオンタイムのニュース番組で見てるわけなんですよ。そんなわけで、やっぱりベルリンの壁は本物を見ときたいという気持ちが強かったわけです。

生徒でも結構いるんですが、ベルリンの壁というとなんか東西ドイツ分断の象徴のイメージが強すぎるせいか、東ドイツと西ドイツの国境で文字通り東西を分断している壁と思い込んでいる人が多いようですが、実際は、首都ベルリン自体が、東ドイツの中でもかなりポーランド寄り(東側)にある都市で、その首都機能のあるベルリンを東ベルリンと西ベルリンに分断したわけです(ホンマややこしいこと考えるわ…)。よって、西ベルリンというのは当時の敵国である東ドイツのど真ん中にポツンと浮かぶ陸の孤島であったわけで、この西ベルリンの周りをぐるっと囲んだ壁がベルリンの壁となるわけです。ここまでややこしいことしながら、西ドイツの首都はこれまた(他のドイツの諸都市に比べたら)何の変哲もないボンにあえてしたわけで、東西分断された時から東西統一はドイツ国民の悲願であったのでしょうね…。

そもそもなぜそんなけったいな壁をベルリンの中に造る必要があったのか?

ー 西側から東ドイツを『守る』ためです。

が、しかーし、ここらへんがオモロイのですが、『守る』と言っても西ベルリンや西ドイツが何か攻撃をしかけてくるのかというと、何もしてないわけですよ。むしろ冷戦当時、西ドイツの方が東の攻撃におびえていたのではなかろうか?と。ところが、東ドイツの国土の中央に浮かぶ「西側のショウ・ウィンドウ」である西ベルリンは日々無邪気に、物資の豊かさをこれでもかと見せつけてくるわけです。西ベルリンが夜な夜な掲げるド派手なネオンや夜空を照らすサーチライトを忌々しい気持ちで眺めつつも、一方で経済発展が思うように進まず、過酷な戦争賠償金に苦しむ東ベルリンからは国民が次々と西に脱走していきよるわけです。最終的にもともといた東ドイツ国民の約5人に1人が西側へ脱走したらしいのですが、これがいかに危機的状況であるか?「ドレスデンの落日と復活」という本で著者の舩津さんが分かりやすい例を挙げてくれています。

『…ある朝学校で職場で、昨日サヨナラと手を振って別れた人が今日は来ない。朝配達される新聞が、牛乳が来ない。郵便も来ない。学校では教師が来ないので授業が始まらない。開店時刻になってもパン屋がが開かない。割れた窓ガラスの取り替えを注文していたのにいつまで待っても持ってこない。電気が来ない(停電)。』

まぁ、こうなると秩序を保つべき社会も崩壊一歩手前ですよね。そら非常事態宣言となるでしょう。

「奴らを壁で隔離しろ!!」って。

ただ、そうやってどんどん監視・束縛の程度を高めることが皮肉なことにどんどん東ドイツ国民の心を離反させることになってしまうのですが…(-_-;)

そうやって建設されたベルリンの壁も1989年に崩壊したわけです。ただ、このベルリンの壁、崩壊しておしまいとはならず、崩壊後も東ドイツ国民には苦難が待ち受けていたわけです。東欧で唯一の優等生国家であった東ドイツですら、東西ドイツ統一後の資本主義経済下では全く使い物にならず、大半の企業が西側企業に二束三文で買いたたかれ、街は失業者で溢れかえるという当時の旧東ドイツ国民の絶望感というか虚無感というかゲルマン民族としての高い誇りを傷つけられた彼らの心情を思うとなかなか胸に来るものもあるわけです。ちょっと趣は異なるかもしれませんが、冷戦時から壁崩壊後の旧東ドイツを舞台にした『善き人のためのソナタ』というドイツ映画はか・な・り秀逸です(レビューをググってみて、興味を持たれた方なら是非おススメします。見終わった後の余韻がハンパではありません)。

と、こう考えると、日本もよくもまぁ東西分断されんかったよな、と。。。現にお隣の朝鮮半島は南北に分断されているわけですし、全然遠い国の話でもないわけです。静岡あたりから北海道にかけてが東日本で共産主義国家、関西から沖縄が西日本で資本主義国家、首都の東京は東東京と西東京とに分かれて、東京封鎖が行われ、アメリカが3年間の空輸を断行とか、その後「東京の壁」が造られるとか、もう笑うに笑えん状況も十分考えられたわけですよね。ただ、もしかするとそうならなかった代わりに2発も原爆を落とされるという「代償」を支払わなければならなかったのだという見方もあるのかもしれませんが…(-_-;)まぁこれはかなりcontroversialな話題なのでまたの機会に…。

そんななんやかんやの私情もあり、ベルリン訪問はかなり期待値が高かったのですが、旅程の関係上実際に目にできた壁はポツダム広場に残されたものだけだったので、ちょっと(というかかなり)心残りではあります。ベルリンで音楽活動を続けている友人がいるので、ま、もう一度行けたらいいな、と。。。(あ、ドレスデンのこと書いてない…)